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北海道新聞社健康保険組合
 

季節だより

vol.9 
健保歳時記 <仙台風景>新聞社健保連絡協議会
2011年8月26日(金)

春と秋に加盟11組合が定期的に集まって情報を交換している「新聞社健保連絡協議会」の今年の幹事組合は河北新報で、この会を補佐する立場の事務局は共同通信が務めている。
  そこのS事務長からメールが届いたのは、3月14日の午後だった。
「今年は、春の協議会を中止して、秋に一本化したいが、各健保はどう思うか?」と書かれていた。
 私はすぐ「道新健保は賛成する。」と応諾の返信をしたが、他の健保も反対するはずがない…

札幌も揺れた 東日本大震災

 東北地方で震度7の地震が発生したのは、3月11日金曜日午後2時46分。気象庁は当初M7.9と発表した。私はそのとき、札幌本社の9階にいた。
 最初は、横揺れが長く続き、やっと収まったと思ったら、また同じような横揺れが2度続いた。4度目は、下から突き上げるような揺れのあとに横揺れとなった。震度は札幌で3。
 後に、M9.0の「東日本大震災」といわれる巨大地震の始まりだった。
テレビをつけると、局内の地震直後の映像が映し出され、揺れの激しさと局員の動揺をカメラはとらえていた。
 気象庁はただちに、大津波警報を発令したが、その後の映像は目を覆うばかりの惨状が繰り返し流れた。津波は仙台空港も容赦なく襲った。
 さらに、追い討ちをかけたのが福島第一原発の爆発事故だった。

努力の末の開催 仙台会議

 このような状況で、震源地に近い仙台で、協議会を開催できるはずがない。
 6月に入っても、余震は続き、復旧の遅れや、原発の深刻さなどが連日報道されていた。そんな時に、幹事組合のT常務理事から意外なメールが届いた。
 「仙台はだいぶ落ち着きを取り戻してきました。河北新報健保は常務理事、事務長ともに代わったので、顔合わせの意味も含めて協議会を開催したいと思います。」
 2年前の京都は、新型インフルエンザで中止を余儀なくされたが、それほどの脅威ではないと分かったので、9月に仕切り直して再開された。
 去年の西日本は、紆余曲折あったが、熊本に場所を替えて行われた。
 今年は、誰の目にも開催は無理と映ったが、幹事組合の努力の末、8月26日の金曜日に仙台で行われることに決まった。

事務長と電話で初対面 貴重な情報も

 仙台出発の2日前に、K事務長に電話を入れた。
「はい、Kですが。」よく通るきれいな声が応じた。
「はじめまして、道新のWです。26日に伺います。」
「お待ちしております。」
「それにしても、大変でしたね。街の様子はいかがですか?」
「外見は元に戻りましたが、ビルの中に入ると、休業店舗が目立ちます。」
「御社のビルはどうですか?被害はありませんでしたか?」
「おかげさまで、大丈夫でした。でも、ところどころにひび割れがあります。来てご覧になったら分かりますよ。」
「あの揺れで、その程度ならよかったですね。仙台には、ちょうどお昼時に着きますが、牛タンのお勧めの店はありますか?」
「私は、き助が好きですけど…。ちょっと待ってくださいね。」
少し間があって、
「みんなの意見を聞くと、全員、利休がお勧めということでした。」
き助でなかったので、ちょっぴり寂しそうに聞こえた。
「ありがとうございました。Mと2人行きますので、よろしくお願いします。」と言って電話を切った。

JALの小型ジェット機。タラップまで徒歩で向かう

着陸までひやひや 仙台の厚い雲

 空港に着陸するため、JALの小型ジェットは徐々に高度を下げだした。やがて雲の中に入り、視界がゼロになった。さらに高度を下げるが、いつまでたっても陸地が見えない。やっと見えたと思ったら、すぐそこが海岸線で漂着物が見えるほどだ。ひやひやしたが、仙台空港に到着した。

見事に復活した仙台空港。右端のタラップから空港に入る

 仙台は厚い雲が垂れ込め、霧雨が降っていた。気温は23度で、札幌から来た身としては、過ごしやすい気温だろう。しかし、湿度は高くべたべたしていた。

空中に浮かぶ駅? 仙台

 仙台駅の東口には、高速バスで午前11時に着いた。途中の車窓から、野原の中に瓦礫と化した放置車両や小型船を10数台目撃した。

2階が駅前広場になっている仙台駅西口

 昼食には少し早かったが、目的の店が人気店だったので、まっすぐ目指すことにする。
 エスカレーターで2階に上がり、連絡通路で駅正面の西口に行く。
 仙台の駅前広場は2階にある。歩道橋が縦横に張り巡らされ、駅前では、それが巨大なバルコニーのようになっていて、そのまま広場を形成している。駅の機能も2階に集中していた。まるで、仙台駅が空中に浮いているような錯覚に陥る。

駅舎内の「牛タン通り」にある一番人気の利休

紹介の店は満点の味 利休

 西口の中央にあるエスカレーターで上がって左に折れると、「牛タン通り」の看板が見えた。目指す店は「利休」。店内はすでに満員で、2人が並んで待っていた。私たちが着くと、2人は店内に呼ばれたので、列の先頭に立つことができた。
 ネットでは、最低30分待ちが当たり前と書かれていたので、かなり運のいいほうだろう。
 8枚もある肉厚の牛タンに、付き合せはキャベツとキュウリの浅漬けと味噌で味付けした唐辛子。麦飯にとろろ、テールスープが運ばれてきた。

定番の牛タン定食

「麦飯は、お代わり自由ですか?」このために、朝ごはんを抜いてきた私が聞いた。
「105円です。」
「わかりました。お代わり下さい。」
 半分残しておいた、とろろをかけて再び牛タンを噛み締める。旨い。



30分待ちは本当だった 中日・Sさん

 食後に、奥にある「すし屋通り」も見たが、客はほとんど、牛タン屋に集中していた。戻る途中で利休を見ると、すでに20人を超す行列ができていた。その中ほどに、見覚えのある顔があった。中日健保のSさんだ。
「お久しぶりです。やはり、利休ですね。」
「いやあ、Wさん。こんな時間にどうしたの?」
「今朝早く札幌を経って、すぐここに来たんですよ。もう食べましたが、本当に旨いですよ。」
 Sさんは、案の定30分待ちだったという。

野球観戦はぎりぎりセーフ!

 時計は、正午を差そうとしていた。会議は3時からなので、Mさんとはホテルのロビーで待ち合わせることにして別れた。別れ際に、
「懇親会が終わったら、どうする?」
「ホテルから球場がすぐそこなんです。今日の楽天はソフトバンク戦なので、見に行こうと思ってます。こんなときでないと行けませんから。」
「それはいいね。今日勝てば6連勝だね。」
 しかし、会議が長引き、予定より40分も超過した。そのせいで懇親会の終了にも影響が出た。やっと懇親会から解放されたMさんが、タクシーを飛ばして球場に着いたときは、試合が進んで9回の表だったという。かろうじて楽天の6連勝の目撃者になることはできた。

可動式ホーム柵が設置されている地下鉄南北線

仙台にも地下鉄 南北線

 仙台には市営の地下鉄がある。昭和62年に富沢-八乙女(やおとめ)間13.6キロが開通し、平成4年に泉中央駅が1駅延伸し、全長14.8キロで「南北線」が完成した。今も、平成27年の開業を目指して、東西線の工事が進められている。

 このごろ私は、観光名所ではなく、その土地をただ、ぶらぶら歩くことに喜びを感じていた。

 地下鉄の仙台駅に行って、北の終点である泉中央駅を目指し地下鉄に乗った。夏の旅人はどうしても北に足が向く。広瀬通、勾当台(こうとうだい)公園、北四番町、北仙台、台原、旭が丘から電車は地上に出る。黒松、八乙女を通って、終点の泉中央駅に着いた。

何が違う? ベガルタ仙台とコンサドーレ札幌

 ベガルタ仙台のホームグラウンドであるユアテックスタジアムが近くにあるため、駅周辺には、ベルガというショッピングセンターやイトーヨーカドーが立ち並び、仙台の副都心となっていた。
 ベガルタは平成14年にJ1に昇格したが、2年後には、J2に降格になる。6年の努力の末、平成22年にJ1に再昇格し現在に至っている。
 コンサドーレも平成20年の再昇格までは、ベガルタとほぼ同じ軌跡を歩んでいた。しかし、平成21年に再びJ2に降格し、そのまま現在に至っているところが決定的に違っていた。がんばれコンサ!負けるなコンサ!

40店舗が軒を連ねる「仙台浅草」横丁

北仙台に浅草があった!

 会議まで、まだ少し時間があったので、帰りに北仙台駅で降りて市街を散歩した。10分ほど歩くと「仙台浅草」という横丁があった。全長100メートルほどの通りに居酒屋など40店舗ほどが軒を連ねていた。お昼時のため、開業している店はランチを出していた数店だったが、いかにも、ふれあいを大事にする雰囲気を醸し出していた。
 横丁を抜けて左に行くと、JR東日本の北仙台駅がぽつんとたたずんでいた。仙台から山形をつなぐ仙山線で仙台駅から乗ると次の駅になる。平屋で黄色い壁の小さな駅だが、失礼ながら地下鉄に乗り継げる駅にはとても見えなかった。
 翌日には、宿泊したホテルのそばで、「仙台銀座」という横丁も発見した。一体、仙台にはいくつの「東京」があるのだろう。

街中にぽつんとたたずむJR北仙台駅

 仙台駅に戻ると午後2時少し前だったので、「仙台国際ホテル」へ行くことにした。このホテルを選んだ理由は、河北新報本社に近く、チェック・インが早かったからだが、事前に送られてきた資料で、懇親会がここのホテルの6階で行われることを知った。運はこの時から我らに味方していた。
  ロビーに入ると、Mさんが荷物を抱えて待っていた。
「あれっ?チェック・インしないの?」
「受付は済みましたが、部屋が空いてないと言われたんです。仕方がないので、ぶらぶらしてましたが、まだなんですよ。」
 昨日満室だったため、部屋の清掃が遅れている旨の説明を受けたそうだ。

シングルがツインに ごね得?

「札幌のWですが、チェック・インをお願いします。」
「このカードに氏名、年齢、ご住所をお書きください。」
「これでいいですか?」
「結構です。お客様、大変申し訳ございません。ご予約のお部屋の清掃がまだでございまして。ご用意できしだいお呼びいたします。」
「このホテルのチェック・インは、たしか午後1時からですよね?」
「その通りでございます。お急ぎですか?」
 時計を示して「もう2時ですよね。今日の会議は3時からなので、その前にホテルの部屋で、下準備をしようとこのホテルを選んだのですが。」すると…

「働く少年の像」がシンボルの河北新報本社

「ご予約のお部屋は清掃中なので、ツインのお部屋をご用意しました。お使いください。」最上階の916号室を案内された。
「私の連れの部屋はどうなっていますか?ずっと待っているんですが。」
「わかりました。手配いたします。」
 しかし、Mさんは、さらに待たされて予約したシングルを案内された。
 結局、私だけシングルがツインになり、ごね得…じゃなく運がよかった。

 ロビーで再びMさんと落ち合い、1ブロック先にある河北新報本社へ向かった。玄関前に、あの地震を耐え抜いた新聞配達の少年の像が力強く建っていた。

被災地を見学 信毎健保・Eさん

 受付の向かいにガラスで隔離された喫煙所があり、中で信濃毎日のEさんが、笑顔で手を振りながら出てきた。
「やあWさん、久しぶりです。私は、早くにこちらに来ましてね、不謹慎だと思いましたが、被災地を見て回りました。」いかにも記者出身のEさんらしい。
「私も、空港から駅までの間に、数十台の放置車両を見ましたよ。」
「現地は、まだまだ大変ですね。」

仙台会議始まる

 Eさんと旧交を温めていると、職員のAさんが来て、会議室に案内された。
初めて会う、静岡のM常務理事、信濃毎日のK常務理事、山日のN常務理事と名刺交換して席についた。

3時間半に及ぶ報告や質疑応答が続いた連絡協議会

 会議は予定通り始まり、最初に河北新報社が製作した「3.11 東日本大震災」のDVDが上映された。札幌で何度も見た光景が映し出されていたが、現地で見ると、なおさら悲壮感が漂った。
 30分の上映が終わると、あまりの惨状に、重い空気が垂れ込めていた。
 最初の報告者は私だったので、大震災のお見舞いに続き、来年度に予定されている保険料率の見通しを説明した。Mさんからは、22年度の決算で経常赤字を報告したが、なんと全11健保組合が経常赤字を報告した。
 保険料率も、中日と河北新報の2組合が上げていた。来年度は、うちを含めて5組合が料率増を模索しているという。

「今年から、厚生局の監査に監事の聞き取りもあるそうやけん。どこか情報はないやろかね?」西日本のUさんが聞いた。
「北海道は9月14日にあります。この中では、うちが一番早いですね。おそらく適正に部内監査が行われているかがポイントでしょうね。」と私は答えた。
「それじゃ、北海道の当日の対応を参考にしましょう。」ということになった。

 私からは、ジェネリック推進に取り組んでいる組合の実態を聞いた。
 共同通信から「外部委託で、本人に年2回通知しています。」
 静岡からは「自前で、差額を決めて本人に通知しています。」という答えが返ってきて、2組合がすでに取り組んでいることが分かった。しかし、効果の検証まではしていないという。道新健保は、費用対効果を追求しようと思う。

 会議は3時間半続いた。幹事組合のS理事長から、
「私も、色んな会議に出ていますが、こんなに充実した会議は初めてです。」という締めの挨拶が出たほどだ。
 S理事長は母体の専務も兼ねている。東日本大震災では、被災地のマスコミとして、社内外で白熱した長時間の議論を交わしたことだろう。多分にリップ・サービスもあったと思うが、私自身、こんなに長い協議会は初めてだった。
  おかげで貴重な情報を健保に持ち帰ることができた。

懇親会始まる

和やかな雰囲気で進んだ懇親会

 懇親会は仙台国際ホテルで行われた。円形テーブルが3つ用意され、西日本、京都、神戸、河北新報、中国、信濃毎日と同席になった。
 ビールで乾杯したあと、私はすぐ地元の日本酒に切り替えた。

「僕は、来年ね。あんたも、がんばんしゃいよ。」隣に座った西日本のUさんがしみじみ言う。
中日のSさんも、
「その次は僕ですから。Wさんはその次でしょ?」定年の話だ。
「私たちは、長男・西日本、次男・中日、三男・道新の定年3兄弟だったんですね。」
 去年までは健康の話で盛り上がったが、話題の主が定年に取って代わった。
 京都のFさんの肩書が事務長になっている。おめでたいことだが、私の知らないうちにY事務長はお辞めになっていたのだ…。

明るい同期 静岡健保・S事務長

 一番奥の円卓にいた、静岡のS事務長がやってきた。
「皆さん、Wさんの<季節だより>見ましたか?健保のホームページに書いてあるんですよ。私は人間ドックの体験記を、腹を抱えて読みました。」
 Sさんとは去年、健保連が主催した新任事務長研修に参加した「同期」の間柄だ。さらに、
「Wさんったら、ジェネリックをジェネラルと言ったんですよ。」
 円卓がそのまま、爆笑の渦となった。
「Sさん。僕もばらしますよ。去年この人と初めて会った時、金髪でした!」
 私と同世代なので、一同から賞賛のため息がもれた。今は年相応のロマンスグレーになっている。
「どうです。これで健保らしくなったでしょ?」
 テレビマン出身のSさんは、上手に落ちをつけた。
 去る人あれば、出会う人あり。こうして健保組合の歴史は続くのだろう。

二次会はカラオケ

 二次会は幹事組合の案内で繁華街に繰り出すことになった。西日本、中国、静岡、中日もいたが、利休での30分待ちがこたえたのか、中日のSさんは早めにホテルに引き揚げた。
 河北新報はS理事長はじめ、T常務理事、K事務長のほか女性職員のAさんやSさんも付き合ってくれた。
  場を盛り上げてくれたのは、静岡のSさんと河北新報の女性陣だが、S理事長の歌が耳に残った。郷土を思う歌を歌われていたのだと思うが、大震災を体験した当事者の声は心に重く響いた。仙台の夜はこうして更けていった。

今日は南の終点へ 地下鉄・富沢駅

土曜の車内は閑散としていた。地下鉄南北線

 今日は定休日だ。出張は昨日で終わっているので、早く帰る必要はない。チェック・アウトして、今度は南の終点になる富沢駅に向かった。五橋、愛宕橋、河原町、長町一丁目、長町、長町南を過ぎると地上に出て富沢駅に着く。

 ここは、見渡す限りの住宅街だ。土曜日の朝なので、駅は閑散としていた。沿線を少し歩くと、大きな公園の中に仙台市体育館が見えた。プロバスケットの仙台89ERS(エイティナイナーズ)の本拠地になっているそうだ。
 仙台の地下鉄は、北の終点にサッカー、南の終点にバスケットを抱えている。
 帰りの地下鉄は空いていたが、それでも長町あたりから混みだした。昨日から、街角や車内で女性を観察する機会があった。
 仙台の女性は、色が白く背が高い。韓国ドラマの女優を見ているようだ。
 誤解を恐れずに言うと、牛タンのように日焼けした女性は皆無で、白謙の笹かまぼこのような、色白の女性が多いのだ。

休日を利用して被災地に向かうボランティア

 そんなことを考えながら、仙台駅の一つ手前になる五橋駅で降りた。地上に出ると、朝の日差しは強く、杜の都の街路樹でミンミンゼミが鳴きだしていた。

 東口から高速バスに乗る。少し走ると、路上にたくさんの人が溢れているのが見えた。どの路地にも行列ができていた。休日を利用して被災地に向かうボランティアの列だった。この「人の列」がまさしく「絆」だと感じた。

地震国日本は地震ではつぶれない

 去年、西日本から引き継ぎされた時に、東日本大震災が起こることなど、誰が予想しただろう。むしろ、東海地方のほうが心配されていただけに、仙台は不意を突かれた格好だ。
 あの大震災から5カ月とちょっとで、全国規模の協議会を開催できるまでになった。市内は日常の活況を取り戻していた。
  地震国日本は、地震ではつぶれないことを仙台は証明した。ただ、そのあとに襲った津波があまりにも想定外だったので、海沿いでは多くの命を失うことになり、今も復興途上であることも事実だ。

勇気をもらった協議会

 健保組合の現状も、それと比較するわけでは決してないが、全健保組合が経常赤字に陥るなど、想像もできない事態に直面している。
  しかし、河北新報が、仙台が、宮城が、東北が立ち直るように、健保も立ち直る示唆と勇気を今回の協議会からもらった気がする。

以上
Copyright  Hokkaido Shimbun Health Insurance Society.